コンプリ団 「ムイカ」@津あけぼの座

コンプリ団「ムイカ

結論から言えば退屈だったしダサかった。個人的にはなにも残らないなという感想であったが他の人と感想を共有する機会があった際、罪深いというレベルの感想もあってなるほどと思う。たしかにこれは単につまらないではおさまらないかもしれない。

それはこの芝居が原爆を題材とした演劇作品だからである。

そのあたりにも触れられるように感想をまとめてみる。

 


①原爆を扱う作品として 
②語りすぎと抽象的すぎ
③没頭か俯瞰か
④俳優の主体性

 

①原爆を扱う作品として

近年原爆を扱った作品の中で話題となったものといえばアニメ映画「この世界の片隅に」である。

この作品の素晴らしいところは語りきれないが、1つはその生活描写にあると思う。

例えば料理を作り食べるといった描写の表情、動きがたまらなく豊かなのだ。その日常は観客である私たちと地続きであるし、日々見逃している生活の本当に何気ない一瞬の美しさを感じることができる。

 


この豊かさは作中で戦争が激化し、空襲、そして原爆の投下へと至る衝撃を増幅させる。そして同時に、この生活の中の美しさは戦時中でも残っているのである。勿論厳しい現実が有ったろうがその中でも暗いばかりではない、くすりとする豊かな日常が、確かにあった。だからこそ戦争は罪深く原爆は罪深いと改めて感じる。

原爆に限らず現実に起きたとても大きなことを扱う場合、こうした戦略を持って、新しい視点を観客にもたらす必要があると考える。僕はこの世界の片隅にを見た時、昔原爆ドームに行き、資料館を見た時、とは別の新しい形で原爆について思いを馳せた。

 


さて「ムイカ」である。

この作品にはそうした戦略が、果たしてどれだけあったのだろうかと思う。

後半に家族の生活感を感じさせるような時間があるが、僕はそこがとにかく不快だった。

なぜならそこで描かれている生活は「家族の生活風」でしかない、からである。縁側のシーンもなんか「良さげな」ことを喋っているだけであって本質も中身もない。

結局雰囲気でしかない、本当の家族の時間とか会話とかおばあちゃんへの想いとかが、ない。特におばあちゃんのことを話す姉妹の会話の、嘘くさすぎる。そんな話し方しますかと。そんな話しますか、と。

 


そういう雰囲気だけの芝居というのはただでさえ、問題だが、これが原爆を扱っているから問題は大きい。

こんなふわっとした良さげなとか雰囲気の芝居で原爆扱っていいのでしょうか。

 


これは感想話してて別の方が言ってたことでまさにと思ったことで、

あなたの選択次第で生きるも死ぬもどうすることでもできますよ的な描かれ方が「ムイカ」ではなされているが、 原爆は生きることとか死ぬとかを選べなかった話ではないかという指摘があった。

本当にそうだと思う。

選択の余地なく、あの日人が殺された。

捉え方次第とかいうレベルでは決してない。

ここの不誠実さは確かに罪深いし不愉快といってもいい。

こうしたことが起きるのもさっきの家族の描き方同様、雰囲気で描いてて現実が見えていないからである。

 


②語りすぎと抽象的すぎ

これまでは作品の思想の問題で、ここからは描き方の問題を取り上げたい。

まずこの作品は、語りすぎと抽象的すぎの両方の問題を抱えている。

 


抽象的な描写で想像力を感化したい、解釈を委ねたいというのはアフタートークでも言ってたようにこの作品の1つの意図である。

しかし、どうとでもとれる感はいいのだが、想像力が方向付けされてないから本当にどうとでもとれて、だからどうでもよくなってしまった。

見ている側が何でも想像してくれればいいが、観客の想像力は有限である。

もし無限ならペンを一本置いておいてそれを観客は見て想像し感動して帰ればいい。しかしそうもいかない。

つまり、ある程度作品が想像力をうまく方向付けした形でかきたてていく必要がある。

スリッパも舞台美術も本当にどうとでもとれるしどうでもよかった。あとはそれらの抽象的表現の質が低い。前半のいろんな場所へ移っていくところとか長いしだれて感じた。ビジュアル的に強烈に美しければ見れたろうがそうでもない。

 


想像力をつかってね、という作品のテイストとは裏腹に、この芝居はめちゃくちゃ説明的なセリフと、メッセージをまっすぐこっちに投げつけるようなセリフが多くある。

 


説明的なのは前述の姉妹のやりとりとかがそれで、なんか情報量がおかしいというか、こっちに情報伝えるための会話で、ああセリフだなあと。

 


また憲法に関するくだりや隣の国だから関係ないわとかこんな世界でとかとにかく言葉が強すぎるし直接的にぶつけられてる。しかも響かない。ただ強い言葉使うなあというだけ。説教的というか。

 


想像力を開こうという割には語りすぎている。男の役が特に、語りすぎていて想像力もなにもなかった。

 


③没頭か俯瞰か
はじめ、作家兼俳優の前説と語りから緩やかに作品に入っていく。そして執拗にこれが演劇である、というようなことが示唆される。演劇であり、観客がいる、それを踏まえてやるというのは演劇でよくある手法である。

この手法が有効なのは、ある意味で観客が冷静さを保てる点である。別に没入して感動して欲しいわけではなく、ただその世界を冷静に見てほしいという場合には、時折これが演劇である俳優が演じているといったことを確認することであえて引かせるという手法は機能する。

これと対をなす手法はいわばドラマ的な芝居である。役者は役になりきり現れ最後まで、そのままで終わる。観客は人物たちの心の動きに、リアルを感じればどんどんと没入していく。そういうやり方。

 


「ムイカ」はこれらの手法を両方やっている。両方やるのは大体そうで、どちらか一方という芝居は逆になかなか無いから別にそれは問題ない。要はバランスの問題だ。

しかし本当はどっちに重きを置いているのだろうと思う。

 


前半の演劇ですというのを強調してやっていたところをみると原爆や世界の問題を俯瞰して欲しかったのか、それにしては後半のドラマ的な描き方は何だろう。後半まるで普通のドラマ芝居のような時間もあったがこれはなんだ感情移入をさせたい?のか?と大変疑問だった。

これも戦略がないと感じた。

 


④俳優の主体性
俳優の主体性が感じられなかった。なんか戯曲が引っ張ろうとしてる舞台だなと。俳優たちが全然豊かじゃない。言葉出してるだけで身体と言葉が切り離されている。全然生き生きしてない言葉も死んでる。だから届かない。