劇団わに社「楽しい研修vol.3」ルシファーチーム

劇団わに社ルシファーチーム
7/16(日)10:00

前日のガブリエルチーム同様コント二本と短編1本。

観終わって2つのテーマが頭に浮かんだ。
①コントの笑い
②他者の存在を意識することで人は変化する

このテーマについて考えながら振り返る。まずはコント。

1本目漫才の入りの定番、1つ飛ばしてべっぴんさんに痛く傷ついた女の子たちに漫才師が怒られるというコント。着想はそれで良いとして転がし方がもう少し工夫した方が良いと感じた。
つかみは怒っている理由がわかったところでできているとしてそこからが、女の子たちの怒り方泣き方、言葉の強さで笑いを取りに行っている。ある程度はいいとしても、定番の客いじりに怒っているというシチュエーション、いわばこのコントの強みがいきていないように感じた。端的に言えばシチュエーションをいかした展開がない。

1つ飛ばしてべっぴんさんという定番の文句、あるいはその他の漫才の客いじりの定番に言及して怒っていくような作りとかどうだろうとか思って観ていた。べっぴんさんのくだりをこう変えろよと言ってくるとか。もっと怒り方にもバリエーションが出たように思う。

2本目合コンのコント。
ヨット持ってるとかのくだり面白かった。男性陣よりは女性陣の方がうまかった。車のくだりとか良いと思う。
そもそも台本の時点で女性の容姿に文句をつけるというのと車種にもってるイメージをもとに文句をつけるという違いがありこれは後者の方が絶対に笑いやすい。ブサイクを笑いにするのはバラエティではよくあるけどあれは受ける芸人の腕がいいから面白い。視点の独自性も後者の方が高いし。

問題としてはコントでやってる独特の発話やクセの強い動きが明らかに笑いにつながっていない。公平オブ公平とか。
これは上にあげたテーマに繋がるんだけど、今回見ていて思ったのは、コントより短編の方が笑いを取れているということ。
短編の方の演技はオーソドックスなものだがコントよりはリアルよりな発話と動きになっている。
それが良い効果を生んでいる、というかコントの方の演技の癖が悪い効果を生んでいる。
ボケてますよーというやり方ではなく、さりげない芝居の中で笑いを取るやり方の方がわに社にはあっているんだろうと思った。

それくらいコントは笑いを十分に取れていなかった。ただルシファーチームの方が少しコントの質は高い。にしてももっともっと面白くないといけないと思う。なぜならば今回のコントは笑いを取ることが目的だと思うから。

短編。
浮気調査をしてきた探偵とそれを依頼した妻、その娘、そして浮気した女性が出てくる。
良かったところ。ちゃんとコーヒーを実物用意して飲んだところ。この役者がその場でコーヒーを飲む営みを観たいんだよそれでいい!と思ってみていた。砂糖ぶっかけるのも絵的に面白い。砂糖いっぱいいれるとコーヒーってあんな色になるんだなあ…。

コントよりみやすい。デフォルメされた笑いが多いけど、探偵の先輩がコーヒーを最初に頼むくだりとかさりげなく面白い。コントに比べ笑いがしつこくないサラリとしている。

話としてはやりたいことはわかるけどちょっと惜しいところが多いという感じ。
コーヒーと恋愛あるいは生きていくことの苦さをかけている。
苦いコーヒーに砂糖を入れて少しの甘みを足しても全部甘くならずに苦みが残るように、
人生も潤いのようなものを足しても、楽しいと辛いが分離して存在するだけ、混ざって全部幸せにはなれないというような。普遍的な感覚であると思う。

コーヒーの例えをするのは全然良いと思うんだけどコーヒーに言及しすぎている気がした。苦いのわかったから、口に出さなくてもわかるからみたいな。もっとさりげなく使ってほしい。
今はコーヒーに砂糖入れたりするくだりがこの話を象徴することを言葉で説明しすぎてしまっている。
これをもっと説明を削って観客の方が能動的にあのコーヒーについて考える思いを馳せてこの物語のどこかを象徴するものだと思ってもらう、という方が良いと思う。
観客の想像力を信用してみる。

さっき説明を削るべきと言ったのはもう1つ理由がある。
喫茶店を舞台にした現代劇、どちらかといえばリアル寄りな演出。にしては余計な説明台詞、例えば不自然な独り言とかが多い。独り言以外にもこの場面でこんなこと言うかなというシーンが多かった。この不自然の原因は上に書いたテーマの通りなのだけど
②他者の存在を意識することで人は変化する
のではないかということ。それが出来ていないのではと考えた。

今回の芝居では探偵2人、妻、娘、浮気相手、喫茶店の店員のそれぞれかなりの割合で初対面かつ強烈に恨んでもおかしくないような人間関係の人たちが集まって話をする。
そんななかで浮気相手の女性と探偵2人という他者を前に妻と娘が話す言葉や、急に出てきた喫茶店の店員を前に妻と浮気相手が話す言葉、になっていたかという疑問があるのである。

カップルが喧嘩するとして2人で部屋で喧嘩するのと、共通の友達を含めた3人でカフェ(他のお客さんもいる)にいるときに喧嘩するのとでは別のものになることは多くの人がわかるだろう。

今回の芝居ではまるで他者が存在していないかのように、妻と浮気相手が話すならそこに2人しかいないように話しているように見える。舞台上の人間が戯曲の展開に合わせてむりに発話しているように思える場面があった。俳優が芝居で嘘をついていないか。

劇作家の平田オリザという人がパブリックな人の出入りが多い場所を舞台に芝居を作った。4人が舞台にいても2人2人でそれぞれに話すような芝居を作った。2人2人で別の話をしながらもどこかで他者の存在への意識を俳優は持っている。
だからリアルだと感じる。美術館のロビーで座っていると他の客が入ってくる、少し席をずれてスペースを空ける。人間にはこういう意識、営みが存在する。ましてや出会って同じ席を囲んで浮気という自分たちにとって大事な問題を話すなら他者を意識しないわけがない。

そこが戯曲の課題かと思った。ちょっと展開のために無理をしている。役者もそこに整合性をまだ十分に出せていない。
あとはそんなに対して親しくもないひとに自分の大事な話をするだろうかとか、暗転が必要だったかなんとかつなげられないかというところと、それぞれ初対面の人たちが「出会う」瞬間相手が誰か「気づく」瞬間が少し雑に見えた。