コンプリ団 「ムイカ」@津あけぼの座

コンプリ団「ムイカ

結論から言えば退屈だったしダサかった。個人的にはなにも残らないなという感想であったが他の人と感想を共有する機会があった際、罪深いというレベルの感想もあってなるほどと思う。たしかにこれは単につまらないではおさまらないかもしれない。

それはこの芝居が原爆を題材とした演劇作品だからである。

そのあたりにも触れられるように感想をまとめてみる。

 


①原爆を扱う作品として 
②語りすぎと抽象的すぎ
③没頭か俯瞰か
④俳優の主体性

 

①原爆を扱う作品として

近年原爆を扱った作品の中で話題となったものといえばアニメ映画「この世界の片隅に」である。

この作品の素晴らしいところは語りきれないが、1つはその生活描写にあると思う。

例えば料理を作り食べるといった描写の表情、動きがたまらなく豊かなのだ。その日常は観客である私たちと地続きであるし、日々見逃している生活の本当に何気ない一瞬の美しさを感じることができる。

 


この豊かさは作中で戦争が激化し、空襲、そして原爆の投下へと至る衝撃を増幅させる。そして同時に、この生活の中の美しさは戦時中でも残っているのである。勿論厳しい現実が有ったろうがその中でも暗いばかりではない、くすりとする豊かな日常が、確かにあった。だからこそ戦争は罪深く原爆は罪深いと改めて感じる。

原爆に限らず現実に起きたとても大きなことを扱う場合、こうした戦略を持って、新しい視点を観客にもたらす必要があると考える。僕はこの世界の片隅にを見た時、昔原爆ドームに行き、資料館を見た時、とは別の新しい形で原爆について思いを馳せた。

 


さて「ムイカ」である。

この作品にはそうした戦略が、果たしてどれだけあったのだろうかと思う。

後半に家族の生活感を感じさせるような時間があるが、僕はそこがとにかく不快だった。

なぜならそこで描かれている生活は「家族の生活風」でしかない、からである。縁側のシーンもなんか「良さげな」ことを喋っているだけであって本質も中身もない。

結局雰囲気でしかない、本当の家族の時間とか会話とかおばあちゃんへの想いとかが、ない。特におばあちゃんのことを話す姉妹の会話の、嘘くさすぎる。そんな話し方しますかと。そんな話しますか、と。

 


そういう雰囲気だけの芝居というのはただでさえ、問題だが、これが原爆を扱っているから問題は大きい。

こんなふわっとした良さげなとか雰囲気の芝居で原爆扱っていいのでしょうか。

 


これは感想話してて別の方が言ってたことでまさにと思ったことで、

あなたの選択次第で生きるも死ぬもどうすることでもできますよ的な描かれ方が「ムイカ」ではなされているが、 原爆は生きることとか死ぬとかを選べなかった話ではないかという指摘があった。

本当にそうだと思う。

選択の余地なく、あの日人が殺された。

捉え方次第とかいうレベルでは決してない。

ここの不誠実さは確かに罪深いし不愉快といってもいい。

こうしたことが起きるのもさっきの家族の描き方同様、雰囲気で描いてて現実が見えていないからである。

 


②語りすぎと抽象的すぎ

これまでは作品の思想の問題で、ここからは描き方の問題を取り上げたい。

まずこの作品は、語りすぎと抽象的すぎの両方の問題を抱えている。

 


抽象的な描写で想像力を感化したい、解釈を委ねたいというのはアフタートークでも言ってたようにこの作品の1つの意図である。

しかし、どうとでもとれる感はいいのだが、想像力が方向付けされてないから本当にどうとでもとれて、だからどうでもよくなってしまった。

見ている側が何でも想像してくれればいいが、観客の想像力は有限である。

もし無限ならペンを一本置いておいてそれを観客は見て想像し感動して帰ればいい。しかしそうもいかない。

つまり、ある程度作品が想像力をうまく方向付けした形でかきたてていく必要がある。

スリッパも舞台美術も本当にどうとでもとれるしどうでもよかった。あとはそれらの抽象的表現の質が低い。前半のいろんな場所へ移っていくところとか長いしだれて感じた。ビジュアル的に強烈に美しければ見れたろうがそうでもない。

 


想像力をつかってね、という作品のテイストとは裏腹に、この芝居はめちゃくちゃ説明的なセリフと、メッセージをまっすぐこっちに投げつけるようなセリフが多くある。

 


説明的なのは前述の姉妹のやりとりとかがそれで、なんか情報量がおかしいというか、こっちに情報伝えるための会話で、ああセリフだなあと。

 


また憲法に関するくだりや隣の国だから関係ないわとかこんな世界でとかとにかく言葉が強すぎるし直接的にぶつけられてる。しかも響かない。ただ強い言葉使うなあというだけ。説教的というか。

 


想像力を開こうという割には語りすぎている。男の役が特に、語りすぎていて想像力もなにもなかった。

 


③没頭か俯瞰か
はじめ、作家兼俳優の前説と語りから緩やかに作品に入っていく。そして執拗にこれが演劇である、というようなことが示唆される。演劇であり、観客がいる、それを踏まえてやるというのは演劇でよくある手法である。

この手法が有効なのは、ある意味で観客が冷静さを保てる点である。別に没入して感動して欲しいわけではなく、ただその世界を冷静に見てほしいという場合には、時折これが演劇である俳優が演じているといったことを確認することであえて引かせるという手法は機能する。

これと対をなす手法はいわばドラマ的な芝居である。役者は役になりきり現れ最後まで、そのままで終わる。観客は人物たちの心の動きに、リアルを感じればどんどんと没入していく。そういうやり方。

 


「ムイカ」はこれらの手法を両方やっている。両方やるのは大体そうで、どちらか一方という芝居は逆になかなか無いから別にそれは問題ない。要はバランスの問題だ。

しかし本当はどっちに重きを置いているのだろうと思う。

 


前半の演劇ですというのを強調してやっていたところをみると原爆や世界の問題を俯瞰して欲しかったのか、それにしては後半のドラマ的な描き方は何だろう。後半まるで普通のドラマ芝居のような時間もあったがこれはなんだ感情移入をさせたい?のか?と大変疑問だった。

これも戦略がないと感じた。

 


④俳優の主体性
俳優の主体性が感じられなかった。なんか戯曲が引っ張ろうとしてる舞台だなと。俳優たちが全然豊かじゃない。言葉出してるだけで身体と言葉が切り離されている。全然生き生きしてない言葉も死んでる。だから届かない。

全国学生演劇祭BC

簡単な感想です

 

c ブルーマー
前半のくだり、千秋楽はほかの回と比べ特別笑いがなかったということを聞いてそれは大きな問題だったなあと思いました。前半のわちゃわちゃが笑えた方が後半の闇が際立つはずだから。少なくとも千秋楽みながら僕は前半笑えなくて前半のうちに冷めてしまってそのせいか後半も乗れなかった。
前半もっとテンション上げてカオスな空間を作って欲しかったと思いました。

語っている終末思想というか内容には非常に共感できました。Cブロック中ではねるつみきも終末的な世界を提示していたので、今の若者世代にある種共通の感覚なのかなあと思いました。

あの日が永遠でこの面倒な世界は明日で終わりならいいのにと、僕も思います。
幕切れが変な説明も引っ張りもなくスマートでした。ガムテープで縛られた女の子が出てくるところはもっとゾッとしたかった。もっとさりげなく提示されたらよかったかもしれない。

LPOCH
この団体が提示した人間の救い方があまりにも納得のいくものでその美しさに僕はちょっとだけ泣きました。
人が救われるのはささやかな肯定的な言葉や出会いであったりしますし、また彼が自分はこの瞬間のために先生になったと気づくシーンに見られる他者への貢献感によって救われるという描き方はほんとに美しいと思います。
一方で面白さという観点では弱い部分もあると感じました。水の表現に新鮮な印象を受けなかったことや、言葉で説明しすぎな印象もありました。男が救われる過程が美しく魅力的であるのですが、それがなんというか綺麗に構成されすぎているように思ってしまいました。綺麗すぎることで人生の切実な真実から少し離れてしまったように僕は感じました。

はねるつみき
ほかの団体とは異なる緊張感を作り出していましたしそれが高いレベルで維持されていました。この作品の提示するヒリヒリとした世界は肌感覚で納得のいくものでした。デモへいく友達との関係、男女の会話、いずれも鋭い表現で楽しめました。
世界への苛立ちを感じさせる中盤までと終盤ミサイルで再びまっさらになる世界。まっさらな世界から始まりそこに帰ってくる構造は苛立ちの先にある諦めのような感覚なのかなと受け取りました。面白かった。

ヲサガリ
ラストのライブシーンが楽しくてそれいぜんは前振りだったんだなあと観終わって思いました。オタ芸もジャグリングも楽しかった。異様なエネルギーを放っているのでもうそれだけで満足。アイドルは彼らの神であって、僕らにもそういうすがる神のようなものがあります。恋人でも趣味でも仕事でも、何かに人は捧げているしすがってるし助けられている。そしてそれを体で示せば今回のラストシーンのようなものになる。生を感じさせる良い舞台でした。

喜劇のヒロイン
俳優のレベルが1番高い団体と感じました。発声、身体性、間の感覚とかも良いのでほんとに安心して笑える。
基礎力が高いだけでなくそれぞれ魅力的でした、最初の女の子の笑い方は一度みたら忘れられないですし、2つの言葉しか話さない弟もかわいいんだけど不気味で印象深い。登場人物の顔を全員思い出せますそういう作品でした。
家族が交換されていく物語は率直に不気味でした。細部の作りが上手くて特に僕は、テレビ何みてるの、わかんなーい、あははは。
というくだりが好きでした。僕たちは家族などの代わりのいないと思う人の「何をみている」のだろう。何を持って彼は彼なんだろう。
いつも以上に構成が上手い作品と感じました。

砂漠のクロネコ企画
なぜ彼らはこの場所にいて会話をしてやりあってという1つ1つのことの動機がわからず、展開のためのセリフや人物になっているように思えた。
不快感を示しながらもこのベンチから離れていかないというシーンが多かった、女性は特に急に杖で殴られてすぐにこの場にとどまるという選択をするから不自然だった。

なんでも治せる万能な医者がいるが、それによって女は不幸になったようである。実のところ万能な、いわば神はもうこの世にいない。本当の意味で解決してくれる存在なんていない。でもそれらしきものにとびついてみるものもいるし、慎重になって待ってみるものもいる。

目の見えない人が見えるようになって狂気にいたるという表現が非常に表面的で既視感のあるもので好きになれなかった

「HI-SECO」企画猫の耳は折れていたか

猫の耳は折れていたか

良かったところ
先生が笑いしっかりとってたまゆちゃんほんと空気感あるし絶妙に面白い役者だなあ
親父の方言
舞台美術の塗りとかが今までよりもきれいに出来てた
チケットがかわいい
立て看板がカッコ良い
オープニングダンス大人数で踊るの好き

感想
みながら、これは「ライトノベル演劇」と呼べるようなものではないかと感じた。強いキャラクター性をもとにした笑い、SF要素の深くは考えさせないように展開する扱い方、学園で変わった女の子が繰り広げる青春劇。
笑えて熱いとこにもってければ成功かなと見ながら思った。それをもとにいか感想。

戯曲はもう少し整理される必要があると思った。いわゆるループものなんだけど、そのループのルールとかどういうものだとかいうのが言葉だけで語られていてわかりづらい。物語に引き込むための前半がうまくいっていない。

あとみながらループものの醍醐味の1つは何度繰り返しても事態を変えられない、っていう部分かもなと思った。時かけしかり僕だけがいない街しかり。ここをこうしたら解決できるのでは、まただめだった…。の繰り返しから解決策を見つけて行くゲーム的楽しさ。
今回の猫ではそこが描かれていないのがもったいない、言葉上で繰り返して失敗してるとは言ってるけど。中盤よりまえにループの終わりである妹への暴行に直面させていったらよりよかったかもと思った。その方がラスト熱いでしょうきっと。


演出としては場面転換、ではけなどからみてもシンプルな見せ方が多かった。それによって何が起きているかどこをみればいいかわかりやすい。一方で同じ絵が多かった印象。部屋とか教室の決まった絵が続いていたのでもう少し絵に遊びがあるとなおよし。
これから演出家が成熟していけばそういうこともできるようになるんだろうなあ。
もっとテンポは詰めていける気がする。軽い熱い楽しいエンターテイメント演劇にはそれに見合ったテンポ感がいるのだ。全然そういう演劇ではないけどもしみてないなら野田秀樹と検索して出てくる映像をこっそりみてみると、超ハイテンポな演劇をみれる。別にここまで速くなくてもいいんだけど、単純に速さとそれをつかさどれる俳優がいれば笑いや熱さはともなってくるとも私は考えたりする。

私は今回の芝居は120分だけど極端に言えば90分〜100分くらいまで短くなるよう詰めた方が楽しいような気がしてみていた。個人的には。

 

俳優は滑舌よく喋れるようにするとなおよし、どこをくっきり聞かすのかとか意識しつつ。

ハイセコがよくやる突発的なギャグ笑いも今回は結構に受けてたのでよかったのではないでしょうか。掛け合いの笑いはもっと研究してくとより笑えると思いました。

笑えると劇に引き込めるから物語演劇には必要な要素だ笑い。

以上。

おつかれさまでしたー

 

 

劇団わに社「楽しい研修vol.3」ルシファーチーム

劇団わに社ルシファーチーム
7/16(日)10:00

前日のガブリエルチーム同様コント二本と短編1本。

観終わって2つのテーマが頭に浮かんだ。
①コントの笑い
②他者の存在を意識することで人は変化する

このテーマについて考えながら振り返る。まずはコント。

1本目漫才の入りの定番、1つ飛ばしてべっぴんさんに痛く傷ついた女の子たちに漫才師が怒られるというコント。着想はそれで良いとして転がし方がもう少し工夫した方が良いと感じた。
つかみは怒っている理由がわかったところでできているとしてそこからが、女の子たちの怒り方泣き方、言葉の強さで笑いを取りに行っている。ある程度はいいとしても、定番の客いじりに怒っているというシチュエーション、いわばこのコントの強みがいきていないように感じた。端的に言えばシチュエーションをいかした展開がない。

1つ飛ばしてべっぴんさんという定番の文句、あるいはその他の漫才の客いじりの定番に言及して怒っていくような作りとかどうだろうとか思って観ていた。べっぴんさんのくだりをこう変えろよと言ってくるとか。もっと怒り方にもバリエーションが出たように思う。

2本目合コンのコント。
ヨット持ってるとかのくだり面白かった。男性陣よりは女性陣の方がうまかった。車のくだりとか良いと思う。
そもそも台本の時点で女性の容姿に文句をつけるというのと車種にもってるイメージをもとに文句をつけるという違いがありこれは後者の方が絶対に笑いやすい。ブサイクを笑いにするのはバラエティではよくあるけどあれは受ける芸人の腕がいいから面白い。視点の独自性も後者の方が高いし。

問題としてはコントでやってる独特の発話やクセの強い動きが明らかに笑いにつながっていない。公平オブ公平とか。
これは上にあげたテーマに繋がるんだけど、今回見ていて思ったのは、コントより短編の方が笑いを取れているということ。
短編の方の演技はオーソドックスなものだがコントよりはリアルよりな発話と動きになっている。
それが良い効果を生んでいる、というかコントの方の演技の癖が悪い効果を生んでいる。
ボケてますよーというやり方ではなく、さりげない芝居の中で笑いを取るやり方の方がわに社にはあっているんだろうと思った。

それくらいコントは笑いを十分に取れていなかった。ただルシファーチームの方が少しコントの質は高い。にしてももっともっと面白くないといけないと思う。なぜならば今回のコントは笑いを取ることが目的だと思うから。

短編。
浮気調査をしてきた探偵とそれを依頼した妻、その娘、そして浮気した女性が出てくる。
良かったところ。ちゃんとコーヒーを実物用意して飲んだところ。この役者がその場でコーヒーを飲む営みを観たいんだよそれでいい!と思ってみていた。砂糖ぶっかけるのも絵的に面白い。砂糖いっぱいいれるとコーヒーってあんな色になるんだなあ…。

コントよりみやすい。デフォルメされた笑いが多いけど、探偵の先輩がコーヒーを最初に頼むくだりとかさりげなく面白い。コントに比べ笑いがしつこくないサラリとしている。

話としてはやりたいことはわかるけどちょっと惜しいところが多いという感じ。
コーヒーと恋愛あるいは生きていくことの苦さをかけている。
苦いコーヒーに砂糖を入れて少しの甘みを足しても全部甘くならずに苦みが残るように、
人生も潤いのようなものを足しても、楽しいと辛いが分離して存在するだけ、混ざって全部幸せにはなれないというような。普遍的な感覚であると思う。

コーヒーの例えをするのは全然良いと思うんだけどコーヒーに言及しすぎている気がした。苦いのわかったから、口に出さなくてもわかるからみたいな。もっとさりげなく使ってほしい。
今はコーヒーに砂糖入れたりするくだりがこの話を象徴することを言葉で説明しすぎてしまっている。
これをもっと説明を削って観客の方が能動的にあのコーヒーについて考える思いを馳せてこの物語のどこかを象徴するものだと思ってもらう、という方が良いと思う。
観客の想像力を信用してみる。

さっき説明を削るべきと言ったのはもう1つ理由がある。
喫茶店を舞台にした現代劇、どちらかといえばリアル寄りな演出。にしては余計な説明台詞、例えば不自然な独り言とかが多い。独り言以外にもこの場面でこんなこと言うかなというシーンが多かった。この不自然の原因は上に書いたテーマの通りなのだけど
②他者の存在を意識することで人は変化する
のではないかということ。それが出来ていないのではと考えた。

今回の芝居では探偵2人、妻、娘、浮気相手、喫茶店の店員のそれぞれかなりの割合で初対面かつ強烈に恨んでもおかしくないような人間関係の人たちが集まって話をする。
そんななかで浮気相手の女性と探偵2人という他者を前に妻と娘が話す言葉や、急に出てきた喫茶店の店員を前に妻と浮気相手が話す言葉、になっていたかという疑問があるのである。

カップルが喧嘩するとして2人で部屋で喧嘩するのと、共通の友達を含めた3人でカフェ(他のお客さんもいる)にいるときに喧嘩するのとでは別のものになることは多くの人がわかるだろう。

今回の芝居ではまるで他者が存在していないかのように、妻と浮気相手が話すならそこに2人しかいないように話しているように見える。舞台上の人間が戯曲の展開に合わせてむりに発話しているように思える場面があった。俳優が芝居で嘘をついていないか。

劇作家の平田オリザという人がパブリックな人の出入りが多い場所を舞台に芝居を作った。4人が舞台にいても2人2人でそれぞれに話すような芝居を作った。2人2人で別の話をしながらもどこかで他者の存在への意識を俳優は持っている。
だからリアルだと感じる。美術館のロビーで座っていると他の客が入ってくる、少し席をずれてスペースを空ける。人間にはこういう意識、営みが存在する。ましてや出会って同じ席を囲んで浮気という自分たちにとって大事な問題を話すなら他者を意識しないわけがない。

そこが戯曲の課題かと思った。ちょっと展開のために無理をしている。役者もそこに整合性をまだ十分に出せていない。
あとはそんなに対して親しくもないひとに自分の大事な話をするだろうかとか、暗転が必要だったかなんとかつなげられないかというところと、それぞれ初対面の人たちが「出会う」瞬間相手が誰か「気づく」瞬間が少し雑に見えた。

劇団わに社「楽しい研修vol.3」

7/15(土)12:00の回 ガブリエルチーム
会場 ナンジャーレ

劇団を会社、公演を営業、お客さんを株主と呼んでいるコンセプト劇団、劇団わに社の研修公演をみてきた。

今回はコント二本、短編「はるか16歳」を合わせた計50分程度。コントは新作で、はるかは度々再演している人気演目。


この先ネタバレがあります。お気をつけください。

 

話に入る前に下手の明かりが強烈に漏れていて気になった。コントの場面転換明かりがチカチカしていて嫌だった。

では本題。
まずコントについて。
率直に言えば全てが甘すぎる。

まず1本目は「詩の宿題を出したら生徒たちがそれぞれ変なものを提出してきた」ことを先生がツッコんでいくコント。

生徒は順番に、詩ではなく、しという字を大きく書いてみたりというボケをしていき、教師がそれをさばいていく。

私が感じた問題は大きくいって2点。
1つは詩にまつわるそれぞれのボケが観客を良い意味で裏切る気持ち良いボケになっていないように思ったことです。
詩=し、としてしという字を書いてくる。詩=しから死のイメージの絵を書いてくる、といったボケはオーソドックスなボケで少し予想がつく。

ただこれが悪いとは思わない。大事なのはここからで、しから始まるものとして師範の絵を書いてくるといった方向にいくのだが、それは予想を外しているものの気持ち良くない上手くないボケだ。


私なりにボケを4つに分類すれば

①予想を裏切り気持ち良い
②予想通りだけど気持ち良い
③予想を裏切ってるけど気持ち良くない
④予想通りで気持ち良くない

になると考えています。ボケに限らずだと思います。
この中で、今回のコントは前半2.4にあたる予想を外れないボケが続きそこから3にあたる予想は外しているけど気持ち良くないボケに突入したように思います。悪い意味で突拍子も無い感じがあった。

 

今回のコントは言ってしまえばフリップボケであると思います。
IPPONグランプリで芸人さんが出す①にあたる回答の気持ち良さのようなもの、が必要だったのではないでしょうかそれくらいのワードや絵のキレへの探求心。

2つ目はツッコミを担った先生役。
ツッコミが悪い意味でしつこく感じました。このちょっとしつこく足してく感じのツッコミは劇団の主宰である林優さんの芝居の影響だと思います。

それが悪いわけではないです。林優さんの芝居は好きで特に他団体で見ていると爆笑させられることもあるくらい笑いの上手い方だなと思います。
ただこの林優的笑いの取り方、林優イズムのようなものが俳優にしっかりと落とし込まれているのかと言われると私は疑問です。
現状台本と言い回しが林優イズムであるがレベルがそこまで達していないから台本の笑いが活きていないと感じました。
これを解消するには、林優イズムのようなものを徹底的に落とし込んでこの台本のツッコミで笑いを取れるようにするか、役者にあったツッコミや笑いの取り方を別で考えるかだと思いました。今は悪い意味で林優さんの芝居の型の中にハマるでもなくぼやっといるという感じ。あと単純に言葉に詰まりすぎ稽古不足。

2本目のコントは林優さんが声当てをやって役者は動く。
役者の動きの笑いも多少あるけど多くは林優さんの言い回しで笑いを取ろうとしている。舞台上の俳優の存在があまりにも希薄で弱くみえてしまったという印象です。

はるか16歳
再演だからか、明らかにコントより質が高い。はるかという少女の16歳18歳22歳28歳(30だったかもしれない)の頃を4人の役者が演じる。マイクを使って、ヒップホップ系の音楽が流れる中で音楽に乗りながらセリフをいう。
よかったなと思ったのはラスト、そこまでマイクを通して人生のもやもやした後悔やらを語ってきたのに対し、ラストでマイクを外し彼女の生の声で現在の肯定と前向きに生きていく言葉を語らせた。これは印象的だった。言葉が際立っていた。
課題となるのはリズム芝居ラップ芝居ということだと思う。リズム感が良く言葉をそのリズムに乗せれないとどうしても小さなひっかかりがあって気持ち良くない。その辺で少し気になった瞬間があった。
4人目1番年長のはるかは非常にリズムに言葉をうまく乗せているように聞こえて気持ち良かった。最後のマイクを外した語りを含めて、今回で1番上手い俳優だったように思う。

全体の感想としては俳優訓練にもう少し力を入れていくべきであると感じた。

 

俳優一人一人が笑いのセンスをもっと磨かないといけない、はたして今回の役者たちはどれだけコントや漫才やバラエティや喜劇をみてきたのだろう。僕には全然役者たちが笑いやコントを本当に好きで探求しているという感じを受けなかった。この点が非常に残念でかつこのことは今まで見た二回の本公演でも思ったことで、直らないなあという印象。

 

あと全然関係ないけどツイッターを改善した方が良い。定期にしてるツイートが多すぎて公演情報が見づらい。公演情報より定期の役者紹介やら時報が多いのは良くない。整理すべき。

映画「夜は短し歩けよ乙女」

原作森見登美彦 監督湯浅政明という豪華な組み合わせ。ミッドランドスクエアシネマにレイトショーで観にいった。

森見登美彦は「有頂天家族」「新訳 走れメロス」といった主に京都を舞台とした青春ファンタジー小説を描く小説家。

湯浅政明は「ピンポン」「マインドゲーム」など傑作怪作をいくつも作っている。この人にしか描けないと間違いなく言える独特な非写実的な描写が特徴ではと観ている。

描くものの形をぐにゃぐにゃにしたり、異様な色に変えてみたり、大きくしたり小さくしたり、様々な仕掛けが詰まったアニメーションを描く監督である。

 

森見登美彦湯浅政明の組み合わせといえば深夜アニメ「四畳半神話体系」がある。

これはもう紛れもなく傑作で、「夜は短し歩けよ乙女」でも描かれたような、黒髪の乙女に恋をしながら踏み出せず悶々と思索にふけっている男の話。舞台が京都なのも共通している。というか森見登美彦作品の繰り返される1つの型なのだ。

「四畳半神話体系」では、冒頭主人公「私」が膨大な新入生勧誘のビラ配りの中からサークルを選ぶシーンから始まる。このサークルを選んでいたらどうなるのか、を毎話描くという特殊な作りになっている。

もしもあの時あちらを選んでいたら、とはなにかにつけて人生で考えてしまうことだと思う。その辺りが題材になっているため、非常に普遍的な作品に仕上がっている。万人にオススメできる作品である。特に大学生には是非オススメしたい。

 

さて、そんな傑作を生み出したスタッフが集結した「夜は短し歩けよ乙女

黒髪の乙女と、彼女に恋する先輩が、京都の飲み屋を渡り歩き、古本市に赴き、学園祭でゲリラ演劇に遭遇しと次々に奇怪で愉快な出来事に出会っていく青春ファンタジーだ。

 

感想の結論からいえば、万人ウケするとは思えないけど結構楽しめたという感じだった。

楽しかったポイントはいくつかあって、1つは湯浅政明によるアニメの魅力。冒頭のお酒を飲み込むあのぐびっという強烈な動きからうわーいいぞとテンションが上がった。アニメーションとしての面白さが頂点に来たのは終盤。風邪をひいた先輩のもとに黒髪の乙女がお見舞いにくることがわかり狼狽するシーン。

そこからの一連の空を飛ぶところも含めもはや何が起きているのかよくわからなくなるハチャメチャなアニメーションが展開される。それが見応えがあって面白い。

 

後感心したのは元々原作が4話の短編になっているものを1つの長編作品にするにあたっての工夫だ。

第1話に当たる飲み比べの話から、第2話にあたる古本市の話へといった際のつなぎが非常にスマートなのだ。

 

更に、手元に原作がないので確かめられないが、小説では確か全ての話が同じ一夜に起きたこととはなっていなかったと思う。

これはおそらく映画化にあたっての改変だろうがこれが非常に効果的だった。

それぞれの話が分断されず乙女の歩く一夜の物語として繋がっていて、ラストシーン夜が明けて本編で初めての昼の明るさの中先輩と乙女が向き合うシーンが印象的になっている。

 

続いて万人ウケするとは思わないといった理由について。

全編通して90分強で4本の短編をまとめて長編作品にしている都合、1つの物語に割いている時間がかなり短い。そのため駆け抜けるように物語が進んでいく、その駆け抜ける感じがこの一夜の愉快さを増している時もあるにはある。しかしながらこの早いペースの中で森見登美彦特有の変な集団やワードがほとんど説明なく出てくるものだから森見作品に馴染みのない人にはなんのこっちゃといったところではなかろうか。詭弁論部はまだともかく偽城ヶ崎のくだりとかは何がなんだかわからないうちに過ぎた。少し勿体無いような気もする。

後は先輩と乙女の関係性の進展が少し急に見えてしまった。先輩は特に前半は何もできない人だから仕方ないのだがあまりにも乙女との関係性を示す時間がない、これは乙女と絡まなくても先輩のなかで乙女を思ったりする時間がもう少しあっても良いのではと思う。全編先輩の心理描写ナレーション、小説でいう地の文の読み上げがかなり削られていたことで、なんとなく先輩の乙女への気持ちが見えづらい。

とはいえ、ラスト、あの夜あなたは何をしていたんだろうと二人が共に思いながら喫茶店で出会うシーンは中々良かったが、それは2人がかなりの時間接触せずに過ごしていたことによるものでそう考えるとまあこのくらいのバランスでもいいのかとも思う。

 

感想以上。ところでエンディングは最高だったなー。荒野を歩け。あの曲で爽やかに終わって街に出ると飲み歩きでもしてみたくなる。